リンフォン

 

 

俺は昔から、言葉を組み替えて別の単語を作る、

アナグラムが好きだった。

「ビール」と「ルビー」とか、

「ドラゴン」と「ゴンドラ」とかがアナグラムだ。

 

やってる本人は楽しいのだが、

よく彼女の前で披露しては、うざがられていた。




第一章 暗き門




先日、アンティークな小物が好きな彼女と一緒に、

いくつか骨董品店を回ったときのことだ。

 

俺は、氷凪という彼女と付き合っている。

 

氷凪は、入手したアンティーク小物や

お気に入りのスイーツの紹介記事を、

ブログに投稿するのを趣味としていた。

 

俺は俺で、古いゲームや古着などが好きなので、

よく一緒に店をまわってはお宝グッズを集めていた。

 

買うものは違っても、

そのような物が売ってる店は同じなので、

休日は予定を合わせ、

ふたり楽しんで様々な店を巡ることが多かった。

 

その日も、俺の車でいくつかお店をまわり、

お互い掘り出し物を買うことができたんだ。

 

帰り道の途中には、〇〇の森公園がある。

 

三十分ほどで一周できるほどの広さがあり、

遊歩道や小さな池が特徴の、

地方都市にはよくある公園だった。

 

運転席から、

サイドウィンドウ越しに広がる公園を横目で見る。



すると、公園沿いに立つ、
一軒の骨董品店が目に付いた。

 

公園の木々に、

半分埋もれるようにして立っている。

 

あんな店、今まであったかな。

この道は何度か通ったことがあるが、

今までまったく気づかなかった。

 

氷凪も知らなかったようで、

ちょっと寄ってみることにした。

店の横の駐車スペースに車を止める。

 

いい感じに寂れているが、

はたして営業しているのか不安になる。

 

店に近づくと、窓から明かりが見えた。

良かった、営業している。

俺と氷凪は、安心して店の扉を開けた。

 

初めて入る骨董品店は、

理由もなくテンションが上がる。

 

「こういう店に『夕闇通り探検隊』なんかが

眠ってたりするんだよね」

 

熱く語ると氷凪から、

かなり冷めた視線をプレゼントされた。

 

とりあえず、ぐるっと店内を回ってみる。

 

店内は薄暗く、

大量の古本に埋め尽くされていた。

 

その隙間を埋めるように、古いツボやら掛け軸やら、

よく分からない雑貨が詰め込まれたカゴなどが置いてある。

 

残念ながら氷凪が好きそうな小物や古着、

そして俺が目当てだったレアなゲームソフトなどは

見当たらなかった。



俺が、「もう出ようか」と言いかけた時

「あっ・・・」

唐突に氷凪が声を上げた。

 

何か見つけたのかと俺が視線を向けると、

古いシダ編み籠の前に氷凪が立っていた。

 

「これ、すごい」

 

目を輝かした氷凪は、

なにやら手に古いパズルを持っていた。

 

それは、籠の一番底に詰め込まれていた、

ソフトボールくらいの大きさの、

正二十面体のパズルだった。

 

色は全体的に黒っぽく、

いくつかの面にはアルファベットとも違う、

なにやら不思議な文字が描かれてあった。

 

今思えば、なぜ籠の一番底にあり、

外からは見えないはずの物が、

氷凪に見えたんだろう。

 

不思議な出来事は、

既にここから始まっていたのかもしれない。

 

「何これ? 有名なものなの? 」

「分かんないけど、なんかステキ。

このパズル、買っちゃおうかな」

 

アンティークモノはよく分からないけど、

雰囲気はいいと思う。

 

インテリア小物としては悪くない。

俺は「安かったら買っちゃえば」と言った。

 

氷凪がパズルを手に持って、レジに行く。

 

レジでは、丸メガネをかけた白髪頭の店主が、

古本を読みながら座っていた。

 

「すいません、これおいくらですか? 」

 

店主は古本から目線を上げ、

レジのある机に置かれたパズルを見る。

 

そのとき、俺は見逃さなかった。

 

店主が目を見開き、一瞬固まる。

そして数秒後、元の表情に戻ったんだ。

 

「あ、あぁ、これね。

えーっと、いくらだったかな。

ちょ、ちょっと待っててくれる? 」

 

そう言うと店主は、

奥の部屋に入っていった。

 

姿は見えないが、かすかに奥さんらしき人と、

何か言い争っているのが聞こえる。

 

やがて、店主が戻ってくると、

一枚の黄ばんだ紙切れを机の上に置いた。

 

「それは、いわゆる玩具の1つでね。

リンフォンって名前なんだ。

この説明書に詳しい事が書いてあるんだけど・・・」

 

店主がそう言って、

持ってきた紙をこちらに向ける。

 

紙の上部には、

掠れた文字で「RINFONE」と書いており、

隣に正二十面体が描かれていた。

 

その下に、三つの動物の絵が見える。

 

多分、リンフォンが

「熊」→「鷹」→「魚」

と変形する経緯を絵で説明していたんだと思う。

 

「 Lasciate ogne speranza, voi ch’intrate 」

紙の下側には、わけの分からない言語が書かれてあった。

 

たしかラテン語だったかイタリア語だったかと、

店主が言っていたと思う。

文字の意味は、分からないらしい。

 

「この紙に書いてあるとおり、

色んな動物に形が変わるんだよ。

まず、リンフォンを両手で包み込んで、

おにぎりを握るように捻ってごらん」

 

氷凪は言われるがままに、

リンフォンを両手で包み、そっと捻る。

 

すると、「カチッ」と言う音がして、

一つの面が盛り上がったんだ。

 

 「あ、形が変わった」

 

「その出っ張りを回したり、押したりしてごらん」

 

店主に言われるとおりにすると、

今度は別の一面が引っ込んだ。

 

「すごい! パズルみたいなものなんですね」

 

氷凪はリンフォンに興味深々だった。

隣で見ていた俺でさえ、目が釘付けになったほどだ。

 

しばらくリンフォンをいじっていた氷凪が、

おそるおそる値段を聞く。

 

「それねぇ、結構古いものなんだよね。

でも、私も置いてあることすら忘れてた物だし・・・」

 

店主が、何もない空間を見つめる。

 

「よし、特別に六千円でどうだろう?

貴重なものだから、好きな人は十万円でも買うと思うよ」

 

氷凪は即決し、
千円札を六枚、財布から取り出した。




次の日は月曜日、お互い仕事がある。

その後は一緒にファミリーレストランで夕飯を食べ、

解散となった。

 

寝る前に彼女のブログを覗いてみると、

さっそくリンフォンの画像がアップされていた。

 

そのリンフォンからは、熊の頭部のようなものが

飛び出しているのが見える。

ハマっているなと笑い、いいねをしておいた。




第二章 色欲の石棺




次の日、仕事帰りの運転中にケータイを覗くと、

氷凪からメールが届いていた。

 

「ユウくん(俺の名前だ)、

あれ凄いよ、リンフォン」

 

「昨日は朝までやって、やっと熊になったんだ。

ほんとパズルって感じで、どんどん形が変わっていくの」

 

「リンフォンが止められない。

今日はそればっかり考えちゃって、

全然仕事が手につかなかったよ。

仕事が終わったら、うちまで見にきてよ」

 

彼女は、どちらかというとあっさりした性格で、

自分からうちに来てよなんて、まず言わない。

 

そんな性格なので、慣れるまでは怒っているのかなと

心配になるほどだった。

 

どれだけ嬉しいんだよ。

俺は苦笑しながら、

車の進路を氷凪の住むアパートへと向けた。

 

「なぁ、徹夜したって言ってたけど、仕事には行った? 」

着くなり俺がそう聞くと、

 

「ちゃんと行ったよ。

眠気覚ましにコーヒー飲み過ぎて、

ちょっと気持ち悪くなったけど」

 

笑う彼女の目元には、薄っすらクマができていた。

 

部屋の中央にあるテーブルに目を向けると、

熊の形になったリンフォンが置いてあった。

 

四つ足で立ち、大きく首を上げているように見える。

パズルから変形して出来たとは思えないほど完成度が高い。

 

それを見て、なんとなく北海道土産でよく見かける、

木彫りのヒグマの置物を思い出した。

 

「おお、ほんとに熊になってる、凄いねこれ」

 

「凄いでしょう、やりだすとほんとハマるんだよ」

 

氷凪がテーブルに、

ミルクティーの入ったティーカップを二つ置きながら、

嬉しそうにしゃべる。

 

「次は鷹になるはずなんだよね。

早速やろうかなと思って」

 

「おいおい、昨日は徹夜だったんだろ。

流石に今日は止めとけよ、明日でいいじゃん」

 

「それもそうか」

 

残念そうな顔をしたが、すぐ笑顔になり、

ふたりでご飯を食べた。

 

その後は、二人だけの時間を満喫したあと、

明日も仕事があるということで泊まることもなく、

俺は自分の住むアパートに帰ることにした。

 

道中、街路樹がしなるほど風が強く吹き、

何度も車のハンドルを取られてしまった。




第三章 貪食者の洞窟




氷凪は毎日、自分のブログに新しく買ったアンティーク小物、

お気に入りのスイーツの画像なんかを投稿している。

 

毎日といっても一件程度だし、

スイーツは仕事帰りにコンビニで買った、

お菓子やらプリン程度のものだ。

 

仕事の昼休みにブログを覗くと、

昨日はロールケーキの画像を投稿していた。

 

ショートケーキ風なのか、上にクリームが乗っている。

とりあえず、いいねを押しておく。

 

夕方、また画像を投稿していた。

今度はポテトチップス、大きな袋の方だ。

 

簡単な食レポと、

次に食べたいもののコメントが添えられていた。

 

二つも投稿があるのか、珍しい。

あいつ、今日は仕事を休んだのかな。

とりあえず、いいねを押しておく。

 

仕事の帰り道、ケータイを覗く。

今度は、ブログにリンフォンの

画像が投稿されていた。

 

お、鷹ができたんだな。

そう思い、画像を拡大してみる。

 

太く曲がったクチバシ、扇状に広がった尾。

羽を広げ、今にも飛んでいきそうな鷹がそこにいた。

素人の俺から見ても精巧な造りだった。

 

「ブログ見たよ、ホントに鷹みたいだね。

後は魚だっけ、でも夢中になりすぎるなよ、

今日は会社休んだろ」

メールを送ると、すぐに返信がきた。

 

「なんか疲れちゃって、ずる休みしちゃった。

明日はちゃんと行くよ。

なんかお腹すいちゃったからコンビニ行ってくる」

 

そのときは、とくに大事ではないかと思い、

気にしないで帰ることにした。




自宅の駐車場に車を止める。

車から降りる前に、

どこか胸騒ぎを感じた俺は、またケータイを覗いた。

 

ブログには、新着の記事が五件もあった。

 

プリン、パスタ、うどん、お弁当・・・。

異常な量の食べ物の画像をアップしている。

 

これ、全部食ったのかよ。

さすがにおかしい。

 

慌てて登録してある番号に電話した。

数コール鳴ったあと、氷凪が出る。

 

大丈夫かと聞こうとしたが、声が出せなかった。

電話の向こうで、氷凪が泣いていた。

 

「やめれないの。

食べても食べてもお腹がすいて、

食べるのをやめられないんだよ」

 

どうやら朝から、

食べて吐いてを繰り返していたらしい。

 

そんな状態でブログに投稿していたのは、

何もなかった頃の日常に、

すがりつきたいための行動なんだろうか。

 

よく聞くと、声が枯れている。

吐きすぎて胃液で喉がやられているのかもしれない。

 

「それじゃあ、

これからリンフォンの続きをやらないと」

 

氷凪が電話を切ろうとする。

 

「ちょっと待って」

自分でも驚くくらい大きな声を出してしまった。

しばらく沈黙が流れる。

 

俺は大きく息を吸って、

気持ちを落ちつかせる。

 

「ちょっと待ってろ、今いくから」

車のエンジンをかけた。

 

少しの沈黙のあと、氷凪が喋る。

 

「ユウくん、明日は出張でしょ、

出張が終わったら、うちに来てよ。

私は大丈夫だから、今日は早く寝て」

 

大丈夫な訳なかった。

ただ情けないことに、

俺は何をしたらいいか分からなかった。

 

車を飛ばして彼女の部屋に行って、

それで、なんて声をかけてやったらいい。

 

「・・・わかった」

情けないのは分かっていたが、

俺は車のエンジンを切った。




第四章 煮えたぎる川



次の日、隣県の県庁所在地。

その駅前にあるビジネスホテルに俺はいた。

 

出張での業務を終え、

先程ホテルに帰ってきたところだった。

 

荷物を片付け、風呂に入る。

仕事中は、極力考えないようにしていたが、

やはり一人になると、昨日のことを思い出してしまう。

 

氷凪のこと。

そして、リンフォンのこと。

 

風呂から上がり電話しようかと思ったとき、

ちょうどケータイが鳴った。

 

画面をみると、氷凪からだった。

 

「ユウくん、さっき電話した? 」

 

ピリッとした緊張が走る。

 

昨日の弱々しかった雰囲気とはまったく違った、

早口で、少し怒ったような声が聞こえた。

 

「一時間くらい前から、三十秒間隔くらいで、

ずっと電話がかかってくるの」

 

「それで着信をみたら「彼方」って出てて。

こんなの登録もしてないのに、気持ち悪くて」

 

矢継ぎ早に氷凪が喋る。

よほど興奮しているみたいだ。

 

「怖いんで放置してたんだけど、

しつこいから一回出てみたのね」

 

「そしたら遠くで何か、

大勢の話し声みたいなのが聞こえて、すぐ切れた」

 

「ねえ、電話したでしょ、本当のこと言って」

 

「いや、してないって、風呂入ってたし。

混線してんのかなあ」

 

「なんでそんな嘘つくの!

なんか隠してるんでしょ」

 

氷凪が怒りで声を張り上げる。

 

昨日は弱々しく、かすれた声だったのが信じられない。

まるで別人の声だった。

 

そして、

彼女のこんな声は聞いたことがなかった。

 

明らかに様子がおかしい。

正直、どう声をかけてやったらいいか分からず狼狽えていたら、

彼女が突然泣き出した。

 

「分かんないよ!

朝から何やっても、何見ても頭にくるんだよ」

 

「仕事に行こうと思っても、すれ違うひと全員睨んでくるし。

あたし、なんかやった? 」

 

明らかに様子がおかしかった。

 

たまに不機嫌になることはあったとしても、

ここまで情緒不安定になるのは初めてだ。

 

「明日、必ずそっちに行くから」

 

なんとかなだめて、俺は電話を切った。

 

氷凪はこの後、

ケータイの電源を切って寝るそうだ。

 

一昨日まで明るくリンフォンの話をしていたことが、

どこか、とても昔の思い出のように感じてしまった。




第五章 屍たちの森




次の日。

昨日の夜から降り続いている雨は、

朝になっても、まだ止む気配がない。

 

出張から帰った俺は、

まっすぐ氷凪の住むアパートに向かった。

 

駐車場に車を止め、

濡れるのも構わず玄関に向かう。

 

玄関の窓ガラスが明るい。

部屋の明かりはついているようだ。

 

氷凪、待っていてくれ。

合鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。

かじかむ手がもどかしい。

 

部屋の中を想像する。

玄関をくぐり廊下を通る、そして部屋に入る。

温かい部屋、可愛いカーテン、心休まるミルクティー

そして、いつもどおり氷凪が笑っているはずだ。

 

玄関のドアを、開ける。

 

 

室内は、誰の気配もしなかった。

 

靴を脱ぎ、廊下に上がる。

すぐ右に、お風呂場へ続く曇りガラスがある。

 

胸騒ぎがして、

その扉をそっと開けた。

 

そこで、氷凪が首を吊っていた。



あれだな、

意外と人間ってああいうとき冷静になれるんだな。

 

俺、ロボットになったんじゃないかってくらい

冷静に行動できた。

 

風呂場のシャワーヘッドかけの低い方、

そこにビニール紐をかけて、

座った状態で首を吊っていた。

 

手を触れると、

体はまだ暖かかった。

 

首にからまったビニール紐を切り、

優しくベッドに寝かせると衣服を緩める。

 

呼吸は止まっている、

胸骨圧迫をしなければ。

ああ、その前に消防に電話か。

 

なんだか現実感が無かったと思う。

ただ、体は勝手に動いていた。

 

救急車が到着する間、

ずっと胸骨圧迫をしていた。

 

視界の端に、

テーブルの上のリンフォンが目に入る。

 

昨日までの鷹の姿ではなく、

ほぼ魚の形をしていた。

 

ただ、魚と聞いて連想する、

よくある流線型のシルエットでは無い。

 

まるで蛙のような顔をした、

ずんぐりとした不気味な造形の魚だった。

 

魚としては、まだ未完成なようで、

あとは背びれや尾びれを付け足すと完成、

という風に見えた。

 

(サイレン)

 

遠くからサイレンが聞こえる。

 

玄関の窓ガラスが赤く照らされ、

救急車が到着した。

 

部屋に入ってきた救急隊員が、

氷凪を担架で運び出す。

俺は、ただその様子を眺めていただけだった。

 

一緒に救急車にのって病院に行く。

 

それから、どれくらい時間が経ったんだろう。

正直、時間の間隔が無くなっていたと思う。

 

病院のICUで、氷凪は意識を取りもどした。

意識を取り戻した彼女の顔は、

やつれて土気色をしていた。

 

処置が落ち着き、一般病棟へと移る。

ベッドの上に寝ている氷凪は、

俺に気づくと弱々しく口を開いた。

 

「お昼にパン食べていて、

明日は仕事に行かなきゃなって考えていたの」

 

「そうしたらケータイが鳴って、

最初は出る気がなかったんだけど、

職場からだとまずいんで出たの」

 

「それで、通話押してみると、

『出して! 』『出して! 』って

大勢の男女の声が聞こえて、

そこで切れた」

 

「その後、部屋中が地震みたいに揺れたかと思ったら・・・、

私、ここに寝かされていた」

 

氷凪は、目に涙を浮かべていた。

 

色を失った唇が、震えている。

か細い手が、俺の手首を掴んだ。

 

「お願い、ケータイを解約してきて」

 

自分のケータイが怖くてたまらないらしい。

あんなことがあったんだ、無理もないと思う。

 

「分かった。

明日ケータイショップに行ってくるよ」

 

宥めるようにそう言うと、氷凪は安心したようだった。

「ありがとう」(ここはひまりのまま)

そういって、そのまま眠ってしまった。

 

その後、俺は起こさないように静かに病室を出ると、

着替えやら小物を取りに行くため、氷凪の部屋に移動した。

 

しばらく入院しても大丈夫なように、

下着や簡単な化粧品類を、

分かる範囲でカバンに詰め込む。

 

魚の形をした未完成のリンフォンは、

ひっそりとテーブルの上に放置されていた。

 

正直触りたくなかったが、バスタオルに包み、

そのまま押入れのなかに放りこむ。

 

荷物をもって、また病院に向かう。

車内では、ラジオをつける気にもなれず、

エンジン音とロードノイズだけを聞いていた。



果てしなく続く、真っ黒な海面、極寒の大地。

人間は、けして生きてはいけない氷の世界。

 

光も届かぬほど深い海を、ゆうゆうを泳ぐ巨大魚。

大理石のような色の皮膚、蛙のような顔。

 

そんな絶望的な光景が、頭に浮かんだ。




氷凪の入院している病室に、

小さなテーブルがある。

そこに小物が入ったカバンを置いておいた。

 

今日は病院に泊まろうと思っていたが、

看護師に断られてしまった。

俺は渋々、自分の部屋に戻る。

 

その夜、自分の部屋で寝ていると、

恐ろしい夢を見た。



暗い谷底から、大勢の裸の男女が這い登ってくる。

俺は必死に崖を登って逃げた。

 

あと少し、あと少しで頂上だ、助かる。

頂上に手をかけたその時、

女に足を捕まれた。

 

振りほどこうと、足を見る。

両目が落ち窪んだ女が、絶叫する。

 

「連  れ  て  っ  て  よ  ぉ  !  !  」



汗だくで目が覚めた。

あの声が頭に残り、何度も反芻してしまう。

時計を見ると、まだ午前六時過ぎだった。

 

目をつむると、またあの両目が落ち窪んだ女の顔が蘇る。

その後ろを、無数の亡者が這い登ってくる。

 

とても、再び眠れそうにはない。

布団の中で思いを馳せる。

 

氷凪との出会い、ふたりの思い出、

あのとき立ち寄った骨董品店、

店主のお爺さん、リンフォンを見たときの表情、

そして、リンフォン。

 

リンフォンって、一体何なんだろうな

そんなことをぼんやりと考えていた。




第六章 凪いだ草原




外の喧騒で目が覚めた。

 

いつの間にか寝ていたようだ。

重く沈んだ足を引きずり、

玄関から外に出てみる。

 

空を見上げ風を感じ、

思いっきり空気を吸った。

 

頭のなかに渦巻いていた重い気持ちが、

いくぶん楽になった気がする。

 

一息ついてから、氷凪のケータイを解約するため、

近所のケータイショップに向かった。

 

日曜日ということで、店はそれなりに混んでいた。

整理券をもらい、しばらく待つ。

 

店内には、

順番を待っている客でごった返している。

 

若い夫婦、幼い子供。

 

俺も氷凪といつか結婚して、

あんな風に家族として暮らせるんだろうか。

 

そんなことを、ぼんやりと考えていた。

 

ふと、リンフォンを買ったあの店が頭をよぎる。

店内の喧騒が、遠くに消えた。

 

リンフォンを買ってから

氷凪が、どんどんおかしくなってしまった。

 

あの店主に問い詰めたほうがいいんだろうか。

俺は見逃さなかった。

 

リンフォンを目にし、目を見開き、戸惑っていた。

あの挙動、明らかにおかしかった。

 

また、あの店に行かなければ。

あの店がまだあれば、だが。

 

ようやく受付番号を呼ばれ、

若い男性の店員に事情を話す。

 

委任状や本人確認書、氷凪の免許証などを提出し、

代理人として手続きを終えた。

 

これで、氷凪のケータイの件は片付いた。

謎の着信に悩まされることは無くなるだろう。

 

とりあえず、一息つこう。

 

近くの公園のベンチに座り、

自販機で買ったコーヒーを飲む。

 

久しぶりに、静かな時間が流れた。




唐突に、ポケットの中のケータイが鳴る。

 

氷凪からだった。

 

慌てて出ると、

今から退院して部屋に帰るとのこと。

 

医者からは、

三日ほど検査入院を勧められたが断ったらしい。

 

俺は車を飛ばし、病院に向かった。

 

病室の中は慌ただしかった。

氷凪は荷物をまとめ、着替えも終わっている。

 

看護師から向けられる、

不信感をもった眼差しが辛い。

 

一階の受付で手続きを済ませると、

そのまま車に乗り、氷凪の部屋まで戻った。




部屋の中では、何を話したらいいか分からなかった。

多分、氷凪もだったんだと思う。



俺はケータイを眺め、氷凪は雑誌を読んでいた。

しばらく、無言の時間が流れた。

 

「ねえ、これ見て」

 

唐突に、見開いた雑誌を俺に差し出す。

 

毎月愛読している雑誌、

その占いのページだった。

 

「このページを担当してる

『猫おばさん』ってひとがいるんだけど、

すごく良く当たる占い師なの」

 

「毎月、この占いを楽しみにしてるんだ。

ねえ、この人の店に行ってみない? 」

 

一瞬、何を言っているのか信じられなかったが、

ふざけている雰囲気ではなかった。

 

俺は、あの骨董品店か、

それかいっそ寺か神社に駆け込もうと思っていたが、

とりあえず、氷凪の気持ちを優先することにした。

 

「猫おばさん」は、自宅に何匹も猫を飼っていて、

本来は自宅で占いをするのだそうだ。

 

その占いはかなり当たるらしく、

業界ではちょっとした有名人らしい。

 

雑誌を受け取ると、

猫おばさんの連絡先を調べる。

 

ケータイで連絡を取ると、

「明日の昼なら開いている」

とのことだった。

 

氷凪は喜んでいた。

ただ、その顔は覇気がなく、

無理をしているのが俺でも分かった。




第七章 猫と占い師




次の日の昼過ぎ。

俺たちは約束の時間に間に合うように部屋を出る。

 

日曜なので、それなりに道は混んでいたが、

約束の時間までにはたどり着くことができた。

 

占い師「猫おばさん」の住む家の前に、

氷凪とふたりで立つ。

 

いかにもな仰々しい建物を想像していたが、

実際にはどこにでもある、ありふれた一軒家だった。

 

看板も無いため、

知らなければ決してここが「占いの館」

だとは分からないはずだ。

 

玄関ドアにつけられた

インターホンのボタンを押す。

 

(ピンポーン)

 

「はい」

「予約した〇〇ですが」

「お待ちしていました、どうぞ」

「失礼します」

 

玄関ドアを開けると、廊下に沢山の猫がいた。

 

座ったり壁にもたれかかったりして、

寛いでいたのだろう。

 

その猫たちは俺たちを見ると、

カーッと威嚇をし、

毛を逆立てて廊下の奥へ逃げていった。

 

恐る恐る廊下を進むと、

突き当りの部屋に、猫おばさんがいた。

 

猫おばさんは真剣な表情をし、

するどい目つきで、こちらをじっと見つめている。

 

彼女は、部屋の中で沢山の猫に囲まれていた。

 

挨拶をしようと近づいた瞬間、

猫たちが一斉に「ギャーォ!」と激しい声で威嚇し、

散り散りに逃げていった。

 

氷凪と困ったように顔を見合わせていると、

 

「・・・すみませんが、帰って下さい」

 

きっぱりと、猫おばさんが言った。



ちょっとムッとした俺は、どういうことか聞いたんだ。

猫おばさんが答える。

 

「私がね、猫をたくさん飼ってるのは、

良くないものに敏感に反応するからです」

 

「猫たちがね、占って良い人と悪い人を

選り分けてくれてるんですよ」

 

ため息をつき、一呼吸おく。

 

「こんな反応をしたのは始めてです」

 

俺はすがる思いで、リンフォンのこと、

氷凪に起きたこと、俺の見た悪夢を猫おばさんに話した。

 

「彼女さんの後ろには、禍々しい動物の影が見えます。

今すぐ捨てなさい」

 

慎重に、ゆっくりとおばさんが答えた。

それがどうかしたのか、と聞くと、

 

「お願いですから帰って下さい。

それ以上は言いたくもないし見たくもありません」

 

硬い表情でこちらを睨む。

 

隣の氷凪も、顔が蒼白になってきている。

俺が執拗に食い下がり、

 

「あれは何なんですか? 呪われてるとか、

よくアンティークにありがちなヤツですか? 」

 

おばさんが答えるまで、何度も何度も聞き続けた。

 

耐えきれなくなったおばさんは、大声でまくしあげた。



 「あれは、凝縮された極小サイズの地獄です!!

地獄の門です、捨てなさい!!帰りなさい!! 」




そのまま外に追い出されると、

俺たちは氷凪の部屋に戻った。





俺はすぐさま、押入れの中のリンフォンを取り出すと、

黄ばんだ説明書と一緒にダンボールに詰め込み、

ガムテープで厳重に梱包した。

 

氷凪は部屋に着くなり疲れたといって、

ベッドで横になっている。

 

俺は起こさないように、

玄関で市役所に電話をした。

 

ごみの自己搬入の予約をとるためだ。

すると、指定されたごみ処理工場なら、

今から持ち込んでも大丈夫とのことだった。

 

俺は書き置きを残すと、

リンフォンが入ったダンボールを、車の後部座席に投げ込む。

そのまま、ごみ処理施設に向かって車を走らせた。

 

ごみ処理工場は、

車で1時間くらいの場所にあった。

 

身元確認や中身の確認を終えると、

俺は職員にダンボールを手渡し、外に出る。

 

これで、終わったんだ。

 

今までの出来事を考えると、

あっけないくらいの幕切れだった。

 

どこか、拍子抜けしてしまう。

その後、あてもなく車を走らせた。



 



普段通らない道を選んで走っていったら、

県境の海沿いの国道にたどり着いた。

 

国道の左側には、果てしなく太平洋が広がる。

その手前を、ひとのいない砂浜が延々と続いていた。

 

いつかふたりでキャンプをしたいなと、

氷凪と話したのを思い出す。

 

時間を忘れ、運転を続けた。

リンフォンのことが頭をよぎった。

 

あの説明書を読んだとき、

思ったことがある。

 

あれの綴りは「RINFONE」と書く。

 

アナグラムで組み替えると、「インフェルノ」になるんだ。

 

INFERNO

 

インフェルノ

つまりダンテの神曲にでてくる「地獄」のことだ。

 

さらにいうと、「FOR NINE」とも組み替えられる。

 

「九」という数字が気になった。

そういや、神曲の地獄は九階層あったはずだ。

 

最下層はコキュートス、氷の世界だ。

 

ひとが寄り付かぬ南極の海、絶望の光景。

あの気味の悪い巨大魚の姿が、頭をよぎる。

 

地獄を表す言葉、その地獄の階層の数、

それらを並び替えた言葉が、リンフォンだった。

 

あの占い師は、凝縮された極小サイズの地獄と言った。

地獄の門だとも言った。

 

あとで氷凪に、このことを話したら、

こんなことをつぶやいた。

 

「あの魚が完成してたら、一体どうなってたんだろうね・・・」

 

俺は、何も答えることができなかった。